「ライフキャリアデザイン」をテーマとした今回のトークセッション。「働く」だけではなく「生きる」ことも含めたキャリアについて、野村ホールディングスの中西康恵さん、キンドリルジャパンの松本紗代子さんにお話を伺いました。
(中島)ダイバーシティキャリアフォーラム2023、トークセッションをご覧頂きありがとうございます。今回のトークセッションのテーマは「ライフキャリアデザイン」。私はファシリテーターを担当するReBit事務局長の中島潤です。どうぞよろしくお願いします。このトークセッションは2人のゲストの方とともに進めてまいります。お一人目が野村ホールディングス・中西康恵さん。もう一人はキンドリルジャパン・松本紗代子さんです。
今日は中西さん、松本さんそれぞれに今日にいたるまでどんなキャリアを歩んでこられたのかというキャリアのジャーニー“旅路”をご紹介いただこうと思っています。このダイバーシティキャリアフォーラムでも使っている「キャリア」という言葉には、働くということだけではなく、生きることも含まれています。生きることも全部ひっくるめたこれまでのお2人の人生経験を聞かせていただくことで、「私にとっての自分らしい生き方ってなんだろう」「私にとって自分らしい『働く』を見つけるきっかけって何になるだろう」ということを、探っていけると嬉しいなという時間でございます。
それでは中西さんから、ご自身のライフキャリアを含めた自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。
私を成長させた凹みの言葉
(中西)ありがとうございます。まず私自身の簡単な経歴と、今務めている野村ホールディングスという会社、DEI推進室室長という役職に触れた上で、私がここにたどりつくまでにどんな経験をしてきたかをお話できればなと思います。
関西大学を卒業後、新卒で入ったのが通販の会社です。当時全国に10のコールセンターがあり、私が配属されたところにはパソコンと電話が100台ズラッと並んでいて、自分の母親ぐらいの年齢の300名を超える女性オペレーターの方達が、そのコールセンターの担い手でした。当時はまだネットが走りだったので、手書きのFAXと電話にてお客様に対応していました。よくキャリアの選択で「自分は管理職になれるのかな」ということがありますが、私が入社したこのコールセンターは、2年目から全員が自動的に管理職になります。年中残業をしながら年中無休の職場で仕事をし、お客様対応つまりクレームへの対応やオペレーターの採用や研修するというのがキャリアのスタートでした。
ここの会社には合計で6年務めました。6年間経験していくうちに、お客様の怒鳴り声や「ちょっと何を言っているかわからないな」ということにも、しっかり聞いて返せるようになってきました。電話に出た瞬間に怒られると、トイレで泣いてしまって戻ってこられないオペレーターの方もおられました。「結局、今の言葉でいうと、『人的資本』だな」「人がすべてだな」ということを痛感したので、「人事キャリアで生きていこう!」と思い、離職をしたのが28歳の時になります。
ただ転職した会社で心折れる経験があり、1回30歳で会社をやめ、1年間ぐらいは無職でした。その1年では準備をして留学に行ったというキャリアの中断を経ています。
留学から戻ってきた後にコンサルティング会社にて採用支援業務に関わったあと、オランダに本社を持つフィリップスのHRビジネスパートナーとして7年間勤務をしました。そして40歳で、今の野村證券に入社をしました。前職と同じくHRBPという仕事を担ったあとに、野村ホールディングスに出向というかたちで、今のDEI推進室で仕事をすることになりました。
プライベートでは猫2匹と暮らしていて、お酒は好きで飲み、利き酒師の資格を持っています。元々インドア派で外にはまったく出なかったのですが、最近やっと外に出る気になってきたので、キャンプを始めました。キャンプ初心者、登山初心者にも優しい場所がたくさんある富山に頻繁に通っており、「とやまふるさと大使」も担っています(笑)
続いて野村についてご紹介いたします。「野村」というと野村證券をご存知の方も多いと思いますが、この会社を傘下に含むのが野村ホールディングスになります。「豊かな社会の創造」への貢献を掲げており、日本では約1万5千人、海外にも多くのメンバーがいるかなり多国籍の会社です。
これが数字での野村グループになります。2025年に100周年を迎える会社で、約90ヵ国の国籍の方が世界30ヵ国以上で働いている会社になります。
野村ではDEI、ダイバーシティをいかに自分たちの経営基盤の真ん中に置くかということをとても重要視しています。
ダイバーシティ、エクイティ、インクルージョンというステートメントを掲げて、これを大事にしてやっていこう。もし課題があるならこれをベースに、どうやって多様性を活かせる組織を作ろうかなということを仕事としてやっています。
多様性というのは、野村にとって本当に肝。ですので色んなバックグラウンドの方、色んな特性を持たれている方達が自分らしく働ける環境づくりがとても大事だと思っています。
次は例をあげて、私が何の仕事をしているかのご紹介になります。DEIを経営戦略の基盤と位置づけているがゆえに、トップのマネジメントの方がどういうことを施策として考えていかないといけないかなというときに、アドバイスを申し上げていく。あるいは社員ネットワークの運営支援を行ったり、人事部門の方と制度について話合い施策を作り上げていったりということもあります。また今日もこのようにイベントの参加の機会をいただきましたが、東京レインボープライドや国際女性ビジネス会議などで「野村はこういうことを大事にしています」ということを伝えたり、もっといいDEI推進戦略を日々日々考えて提案・実行するということを仕事にしています。
ただ私はまだまだこの仕事の初心者で、この4月に始めたばかりになります。またここに至るまでにも、冒頭で触れたように色んな「凹み」というのを経験してきました。
何か参考になればなと思い、自分の凹みをこうして並べてみました。自分が新卒で入った通販の会社では、だんだん慣れてきた頃に、本社から「キャリアを考えてみましょうワークショップ」がやって来て、白い紙を渡されて「あなたのこの会社における5年後、プライベートにおける5年後を書いてみましょう」と明るく言われたんです。でもその白い紙を前にして、まったく一言も書けなかった。正直かなり凹みました。何かやっている風だったけど「何をやってきたのかな」「自分は何をしたいのか」ということが全然わからなかったんです。新卒のときにも、本当に唯一内定をもらえて入ったところもあったし、先を考えていなかった。ただ冒頭ふれたように人的資本、「人って本当に財産だな」ととても強く感じたし、採用の仕方研修の仕方ひとつで人は輝きます。あるいは私が言い方を間違えたせいで落ち込んで辞められてしまうということも経験したので、人というものを本当に戦力、力にしたいなと思って転職をしました。
そうして2社目で人事の仕事に就いたものの、人事初心者でした。正直仕事は簡単で、5時の定時になるまえに終わっちゃうし、「何かありませんか?」と聞いても「何もないから座ってて。ネット見てたら?」みたいな感じで。ある日いつも通り定時に帰ろうとしたときに、自分と同じ日にキャリアで入った方とエレベータ前で鉢合わせをして、「もう帰るんだ?いいね楽で」と言われたんです。そこで私は怒りと落ち込みの両方が来て、でも言い返すにしても確かに専門性もないし、武器も何も持っていませんでした。これは武器磨きが必要だなと痛感をし、転職をしようということになったのですが、ただ転職してもまた初心者の繰り返しになってしまいます。
ここは勉強をしようと、一回仕事をやめました。1年間失業手当を頂戴し職業訓練校に通いながら、自分の道を考え「留学をしよう!」と思いました。「英語だけ今さらしゃべれても」という友人もいたので「じゃあ人事と英語、ヒューマンリソースマネジメントで修士号をとりにいこう!」と自分で見つけた道なのですが、周囲の人事のプロの人や留学経験者に言うと「いやいや、30歳でしょ。無駄無駄、意味ないよ」と言われてしまったんです。どうしようかと思いましたが、自分の貯金で誰にも迷惑はかけないし、行っちゃえと旅立ったのが30歳でした。
その後戻ってきて、採用のコンサルタントを経てフィリップスに入社、そして、野村に入ったのが40歳のときです。ある日退職される方と面談をすることになって、なぜか私の話になったんです。あっちこっちに行ったし、中断したこともあった私のキャリアを説明したら「よくうちに入ってきましたね」と驚かれました。確かに新卒で入社して経験を積んでいく方が多い中で、1日1ドルで生活をしたり、アルバイトでギリギリ生活をつなぐなんて経験をしてきた方は周りにおらず、自分は落ちこぼれかな浮いてるかなと思ったこともありました。でもこういった凹みの言葉が「でも!」と考えるきっかけになったかなと思っています。
結局働くって、自分を知るということ。仕事を通じ色んな方にお会いすることで見つけられることもあるし、えぐられるような経験によって、自分がこれ好きだな嫌いだなとか、得意かもと気づくこともあると思います。今日50を手前に、自分のキャリアを振り返って、皆さんにお話する機会をいただいてすごく嬉しいなと思っています。
(中島)中西さんありがとうございました。「元々人事がやりたくて人事をやっています」というわけではなく、新卒でご経験をされた「人がすべてなんだな」という実感を基にして、次のキャリアが見えてきた浮かんできたというステップだったんだなと知ることができました。凹みの経験、貴重なことをシェアしていただきありがとうございます。きっと今ご覧いただいている皆さんも「先輩たちにも凹んできた経験があるんだ」というところは、気づきと励ましになっているんじゃないかと思います。どうしても今見えているキャリアだけを考えると、すごく成功されてきたのかなとか、元からその道でずっとやられてきたのかなと想像しかちですが、そうではない旅路があったんだなということを、皆さんも実感されているのではないでしょうか。
目標になることを目標に
(中島)では続きまして、松本さんからもお願いしてよろしいですか?
(松本)中西さんのお話、聞いていてすごく参考になりました。すごいなと思ったのは、キャリアの先が見えない時に立ち止まる勇気。その勇気って実はあんまり持てないものだと思います。いったん立ち止まってみて、次のキャリアに必要なことに切り替えてみる。それを活かして次のキャリアをスタートするって、人生100年時代とも言われるこれからの働き方の主流になってくると思います。
(松本)皆さんこんにちは、キンドリルジャパンの松本紗代子ともうします。今日ご参加の皆さんに突然質問から始めたいのですが、皆さんの中でキンドリルという会社をご存知の方はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。まだ創立2年という若い会社なので、まずは会社の紹介からさせていただければと思います。
キンドリルは世界60ヵ国以上で展開をし、約9万人の社員を抱える「世界最大のスタートアップ」と言っています。2020年に、IBMから分社化を発表して、以降11ヵ月間完全リモートで会社を作って、2021年9月に会社を設立しています。それから2ヵ月でニューヨークの証券取引所に上場するという、ものすごいスピード感でこの2年間を進んできております。業態としてはITのプロフェッショナルサービスになりまして、主に複雑かつミッションクリティカルなITシステムの設計や構築、運用というのを得意としている会社です。世界中の金融機関の約6割が私たちのお客様、通信・小売・自動車会社の約半数が私たちのお客様です。
皆さん普段はあまり意識することはないと思いますが、私たちの日々の生活や社会インフラの後ろには、必ずITシステムがあり、24時間365日、我々の社員がそれを支えています。私たちキンドリルの社員1人1人が、社会に欠かせない役割を担っていることを、私はとても誇りに思っています。
会社の立ち上げには、ものすごいスピードとエネルギーが必要になります。そのために社員全員で共有できるパーパスや行動指針、価値観が重要になってきますが、私たちはそれを「Kyndryl Way」として定めています。ここで重要なのは、社長や偉い人が「あなたたちこれをやってください」と言っているわけではなく、社員全員の声を基に、どういう会社にしたいかということで決めているんです。分社化から2年が経ちますが、この2年間「Kyndryl Way」の浸透のために、全員参加型で様々なことをしています。なおかつ人事制度も社員の声を反映して作っています。
私たちキンドリルは、1人1人の能力を最大限に発揮できるように支援するのが会社であり、私たちリーダーの役割だと定義しています。ですので、スタートアップでありながらも社員の声を反映させながら制度を充実させているというのが、大きな特徴です。
本日は私のキャリアジャーニーをお話して欲しいというリクエストを頂戴していますが、キャリアといっても働き方だけではなく、生き方という見方もあるとのことでした。自分にとって転機となった出来事を中心にお話したいと思います。
私も振り返ってみると全然平坦な道ではなくて、一歩進んでつまずいて、誰かが支援してくれたり声をかけてくれたり、支えてくれる手があって何とかまた立ち上がって、ということの繰り返しです。せっかくの機会ですので、今日はそのあたりのリアルなお話をオープンにできたらなと思っています。
こちらが私のキャリアにおける主な役職をリストアップしたものです。時間をおってご説明しますと、私は2003年に新卒で日本アイ・ビー・エムに入社しました。2003年はものすごい就職氷河期で、自分が何をやりたいかというよりも「これだけは欠かせない」という点に絞って、片っ端から面接を受けました。私が欠かせないと決めていたのは、やはり女性が働きやすい会社ということと、海外へのぼんやりとした憧れがあったので、グローバルであること。すごく短絡的なのですが外資であればその両方が叶えられると思い、毎日何件も面接を受け、何件も落ちて、「もう無理だ、疲れた」と思ったころに最初に内定を貰ったのがIBMでした。
まず働く先を見つけることで精一杯で、その先何をしたいかとかはまったく考える余裕もない中で、社会人人生が始まりました。そうして入社したのですが「あれ?なんか違うぞ?」と思ったのは、最初に配属された50人ほどの部署でのことです。女性が1つ上の先輩ひとりと、私と同期の3人しかいなかったんです。私が配属されたのが鉄鋼や重鋼業を担当する営業部門だったことが大きかったのですが、他の部門に比べて女性がダントツで少なくて。女性の役員の方もいたのですが、新入社員から見ると女性の役員というのは雲の上のような存在で、入社してそうそうにロールモデルというか、どこを目標にキャリアを進めていけばいいのかを完全に見失ってしまいました。
そんな時に隣の営業部の部長と飲みにいく機会があって、愚痴とともにそんな話をしました。そのときに「目指す目標がないのが大変なのは理解する。ただこれから間違いなく松本の後輩として女性がたくさん入社してくるから、そういう人たちが同じように悩んだり困ったりしないように、自分が目標になることを目標に頑張ってみたらどう?」と言われたんです。もう20年も前の話なのに、不思議なことに今でもそのときの風景や部長の言葉をすごく鮮明に覚えています。目標がなく、進む道に迷っていた私が初めて、ぼんやりとした目標を見つけることができました。この言葉はその後もキャリアに迷ったときや辛い思いをしたとき、重要な選択をするときに何度も自分の中に戻ってきて支えてくれています。
次の大きなステップとしては、2012年に営業部長に就任します。「こういう風になりたい!」と思って入社したわけではなかったので、「マネージャーになってください」と言われてすごく驚きました。ただそう言ってくれた事業部長が「自分は5年で最強の組織が作りたいんだ」と仰っていて、その組織の中で私に何を期待していて、どんなところがマネージャーに向いているかというのを、詳細に説明してくれたんです。なおかつ「やれると思っているからアサインしているんだ」と背中を押してくれたんたんです。すごくハードルの高いチャレンジだし、元々やれるともやりたいとも思っていなかったのですが、そういう支援をしてくれる人がいたのでオファーを受けることができました。
そして2015年に社長補佐に就任します。11ヵ月という短い期間ですが、初めて営業職を外れて、社外や海外を含めて今につながる多くのネットワークを築くことができました。そして一端営業職を離れたこの時に「私本当は何がやりたいのかな?」「今のタイミングで何をやっていたらこの後のキャリアや人生で後悔しないのかな」ということを、初めて真剣に考え出しました。それで「小さい頃からぼんやりと持っていた海外の仕事への憧れを、ここで叶えるべきなんじゃないか」と思い、グローバルアカウントであるトヨタ自動車様の海外のセールスチームの責任者に自分から手を挙げて着任しました。
ここで様々な国籍を持つグローバルなチームで仕事をすることになったのですが、グローバルな環境で仕事をしていると、例えば肩書きとかジェンダー、年齢ではなく「私」という個人を見てくれるので、やりがいとか会社への帰属意識をすごく感じたんです。一方で日本の仕事に戻ると、どうしてもやはり性別や年齢というもので、自分のことを見られることが多い。テクノロジー業界で営業職として働く女性として、「日本人女性の◯◯」と言われることが多くなって、ぼんやり感じていた居心地の悪さや自分の属性というのを、嫌でも意識させられることが多くなってきたんです。
自分がグローバルのチームで仕事をしたときに感じたような、皆が個性を発揮して活躍できる世界を日本でも作りたいという思いを、強く抱くようになりました。あの時となりの営業部長にかけてもらった「自分がロールモデルになる」という言葉とともに、自分のキャリアを通じて、次世代を担っていく方々のために、未来をもっともっとよくするというのが、私の働く意義になります。それが見つけられたのが、2018年頃です。
今就職活動中であるとか、キャリアをスタートしたばかりの皆さんが「働く意義なんて見つけられないよ」というのも、「そりゃそうですよね」と。心配することはなくて、自分の中でひとつずつ積み重ねていけばいいのかなと思います。
働く意義というのを見つけられるようになってからは、自分の中でどんどん新しいロールや1つ上のロールにチャレンジする怖さがなくなってきたと思います。
2021年には、グローバルな環境で仕事をした結果として、アイ・ビー・エムのグローバル全体でトップ80社のお客様であるソニー様を世界的に担当するチームの責任者に就任します。アイ・ビー・エムの長い歴史の中で、日本人女性が担当するのは初めてとのことでした。「いつかなれたらいいな、でもムリだろうな」と思っていたので、オファーをいただいたときはすごく驚いたし、すごく嬉しかったです。
ただここでもビックリすることがおきて、この後たった3ヵ月で今のキンドリルへの移籍の話が出てきたんです。自分が夢のように思っていた役職をいただいたばかりなので、ものすごく迷ったのですが、この規模のスタートアップの立ち上げは将来経験できないだろうし、せっかく移籍するのであれば戦略の中核を担う事業を自分でしたいなと思って、ずっとやっていた営業職を飛び出して、アライアンス事業の日本の責任者を希望しました。
それに加えて、自分の働く意義でもある「皆が個性を発揮して活躍できる世界を作りたいな」という思いを実現するために、インクルージョン・ダイバーシティ&エクイティの責任者にも手をあげて、1年半双方の立ち上げをやって、現職に至るというかたちです。
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